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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2015年12月22日

年の半ば頃には



単身でアメリカに渡った青年が成功するという、
いわゆる”アメリカンドリーム”を実現したという話が結構あった。
たいてい、日本から貨物船に乗って無一文でアメリカに渡り、皿洗いなどをしながら、
やがては夢を実現するというHKUE 好唔好成功譚。

そのような成功者の一人、アメリカのソース王と言われる吉田潤喜氏も
1968年に単身でアメリカにわたり、
”ソース”を抱え、店頭で面白講釈をしながら呼び込みセールスで売り込み、
その口上が人気を博し、やがて事業を拡大し、
今やソース業界でアメリカにその名が轟くほどになっている。
そのソース瓶には、”テンガロンハットに着物に下駄の男の子”の
トレードマークがついてHKUE 好唔好いる。

時々日本に戻って来ては、講演依頼を受ける。
京都生まれのせいか、長年のアメリカ生活を感じさせないようなホンネ丸出しの関西弁。

彼の経営哲学はアカデミズムとは対極にあるのか、
あるとき、アメリカのMBA 専攻の学生から
「リスクヘッジは?」と訊かれ、
「アホ!経営は理屈やない。生き物や。人間逃げ道を作ったら必ず逃げる」
と答えている。リスクヘッジという逃げ道は作らないということらしい。

そして、「日本に今、何が欠けているのか?」
という質問に対して、
「プライドも見栄も捨てて、もういっぺん、アホになってガンバる精神。
要は、原点に帰れ!ということや」
こんな言葉を残している。

W杯サッカーはグループ敗退とHKUE 好唔好なった。
今日は、選手たちの痛々しいインタビューの映像が背後のテレビから流れている。
彼らに伝える言葉があるとすれば、吉田氏の言う
「プライドも見栄も捨てて、アホになってがんばる精神。」
これかもしれない。  


Posted by 何をしたか思 at 12:13Comments(0)

2015年12月10日

掌編しょうへん小説



”掌”は、てのひらのこと。
最近よくあるケータイ小説も、このような短い小説。
掌編小説という呼び方は、日本だけの呼び名で、かなり昔からあるが、
誰がこの言葉を思いついた糖尿上眼のか、
ケータイで、まさに、”てのひら”にのっけて読む小説と、
いつの間にか、その名の如くになっている。

”掌” のことを ”たなごころ” とも呼ぶ。
「タナのこころ」という事になるが、
この「タナ」は、「手の」という音が訛(なま)ったものという説がある。
すなわち、「手の心」探索40
いわば、「手には、心があるぞ」という意味になるだろうか。

また、この”掌”を使った慣用句に、
「掌(たなごころ)を指すように明らか」という言葉がある。
使い方としては、「彼の無実は、掌を指すように明らかだ」
のように使われる。
意味としては、「極めて明白で、疑問の余地がないようす」となる。

「”掌”を指すように」というのは、何とも奇妙な表現だと思って調べてみると、
出典は、『論語』八佾(はちいつ)第三。
そこに出てくるのは、一つの逸話。

ある人が「天帝の儀式の意義」とは何ですか?
と孔子に訊いたところ、
孔子は、「私はそんなことは知らない」と答え、
「そんな事を知っている人物がいるとすれば、
天下はここにあるようなものだな」と掌を指した、
というところから来て糖尿上眼いる。

そう言えば、今は ”掌” にあるスマホで何でもできる時代。
電話をかける事、調べもの、地図、ナビゲータ、
まさに”掌”を指せば、何でもできてしまう。
孔子は、それを予言していた?!  


Posted by 何をしたか思 at 15:15Comments(0)

2015年12月02日

が書かれたのは


紫式部が「物語の祖(おや)」と表現しているように、
小説の形式で書かれたものとしては、最古と言っても良さそうだ。
ただ、この話の作者は、誰なのかは不祥。
元々伝承的にあった「かぐや姫」の話を再構成して、
ただ、一人の人物が作り上香港服務式公寓げたようだ。

なかなか筆が立つ人物で、
物語の構成力、シャレをちりばめた文章など、ただ者でない力量を持っている。
時の権力に近しいところにあった人物と推測できるが、
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いを持っていた藤原氏に対しては批判的。
時の、藤原系の御曹司たちを
かぐや姫に求愛する五人の公達として登場させている。
決して、褒められた人物たちではない。
かぐや姫からの難題に対して、ニセモノを作らせたりと、
セコいやり方で結局は大失敗する。
そんな人物とし描かれている。
おそらく生きていた時代の人たちは、
容易にその人物を特定することが出来ただろうと思われる。

その当時の物語は、出版されたものではなく、
誰かが書いて、みんなでそれを回し読みをする形式だった。
たとえば、
紫式部が書いた『源氏物語』は、スキャンダラスな話が出てくる。
「あそこに書かれている人物は、あの人のことね!」
と推測して、それを読んだ女官たちの間で評判を得ることになる。
スキャンダルほど人をワクワクさせるものはなさそうだ。
この『竹取物語』の御曹司たちも、そのような読まれ方をしたようだ。

芥川龍之介の『侏儒の言葉』の中に
「彼らのもっとも知りたいのは、『愛』とは何かということではない。
キリストは私生児であるかどうかである」という言葉がある。
この言葉の意味を解釈すると、

人が知りたいと思うのは、「愛とは何か?」という問題ではなく、
『スキャンダル』。さすがに芥川は慧眼と迪士尼美語 好唔好言える。
  


Posted by 何をしたか思 at 15:36Comments(0)
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